「我が青春のフェリスタス」〜コンクールの思い出を語る

吹奏楽部って上手くても下手でも結局コンクールしか行事ないんだよね・・・
だからやっぱりそこには様々なドラマが生まれる・・・・
そして全国の遠く離れた仲間とも盛り上がれる共通の話題。それがコンクール。
ここではコンクールの思い出を振り返りながら自分の反省にしたいと思います。

1976年(中学校2年生)
ポップス描写曲メインストリートで(岩井直博)

記念すべきコンクール初出場。ドラムとエレキベースが必要ということで顧問の先生がバンドやってる3年生をいきなり連れてきた。「吹奏楽部手伝ったら文化祭で演奏させてやる」と言う条件だったらしい。当時はバンドやってる奴=不良だったので校内でしかも生徒の前で演奏させるなんてとんでもない!っていうのが常識だった。そう考えるとホントスゴイ先生だったなぁ・・・当時は気がつかなかったけど。というわけで譜面の読めないベースの先輩のために動きの同じバリトンサックスの私が一緒に練習したりして・・・実は恐かったのよ・・・ホント。残念ながら当時の録音もなく、どんな演奏だったのかも記憶がない。聞いた人の話だと「古中のメインストリートは超遅くてダルかった」らしいが。しょせん田舎者に人と車の溢れる都会の情景描写なんて無理なんだよ!ってことかな。

ヘリテージ序曲(J.A.カウディル)

初出場の自由曲がこれ。前年度青森県ではカウディルの「吹奏楽の為の民話」が大流行。その人の新曲ということで選んだらしい。「ヘリテージというのは遺産という意味です」と、先生が説明してくれたのなぜだか今でも覚えてたりする。吹奏楽部に入って半年。初めて吹く本格的な?曲なので自分で言うのも何だが真面目に練習していた。ところがとなりの教室からは全然別の曲が聞こえてくる。トランペットの連中はなんて不真面目なんだろう!と怒っていたら合奏の時間。ラッパの連中は違う曲練習してたんだから吹けるはずがない!先生に怒られるぞ〜ざまぁ見ろとか思ってたら・・・♪ちゃんちゃかちゃ〜ん・・・げ!「ラッパがやってたの同じ曲だったのかよ!!」そうなのだ、私はその時初めて合奏の魅力というか音楽の深みというかそんなものに気がついて猛烈に感動したのであった。そうか全然違う動きなのに一緒になるんだぁ、すげえなぁって。それまでは自分のパートを吹いて出来たらそれで終わり!って感じだったのが、その日からは他のパートが何をやってるのか聞くのが楽しくなったわけです。伴奏とかメロディとか対旋律とかそれぞれの楽器にそれぞれの役割があって、俺の楽器は伴奏7割対旋律2割メロディ1割くらいなんだなぁなんて、誰でもわかりそうな事をその時まで知らなかったんですよ。だからこの曲は吹奏楽の世界では決して名曲ではないのですけれど私にとっては忘れられない1曲なのです。

1977年(中学校3年生)
ディスコキッド(東海林修)

 当時誰もが感じていたであろう「何となくかっこわるい吹奏楽」というイメージをいきなり変えてしまった魔法の曲。中学校3年生だった私も一発でこの曲の虜になり朝から晩まで吹きまくりました。とにかく誰かか吹きはじめると最後まで吹いちゃうんですよね。誰も途中でやめようとしない。しかししかししかし当時私の使っていたバリトンサックスは最低音がB♭までしか出なかったのだあ!(つまりあのかっこいい冒頭の部分ができなかった・・・)しかもウチの中学校にはピッコロもなかったのだあ!!更に付け加えるならドラムセットもなかったのだあ!!!でも僕らは足りないパートを歌ったり吹いたりして(極めつけはラスト近くのグロッケンまで金管の連中がマウスピースをぶつけてチーンってやってたりして)演奏し続けました。(きっと今でも吹けると思う)だが!それ程までに一生懸命練習したのに私の学校はその年コンクールには出場しなかったのだあああ!!!そんなわけで死ぬまでにちゃんと吹いてみたい曲のナンバーワンなのです。日本全国の30代のみなさん!ディスコキッド愛好会作って「3000人のディスコキッド」なんてやりましょうよ!きっとみんな出たいんじゃないかなあ・・・

フェスティーボ(V.ネリベル)

突然だが私はネリベルを愛している。それは20数年前のこの曲との出会いからだった。
当時バリトンサックスというはっきり言って地味な楽器を担当していた私は「俺がいなくても演奏に支障はないのではないか」という悩みを常に抱えつつ日々の部活動に臨んでいた。それは次第に私の中で私自身の存在をも揺るがす重要な命題となっていたのである。存在自体が無意味なら部活動を継続する意味もない。いっそやめてしまおうと考えていた時にこの曲に出会ってしまった。「私の音が必要とされている至福の快感」と「私がいなければ音が変わる確実な実感」を生まれてはじめて教えてくれたのが彼のこの曲だったのだ!今日の私があるのも彼のおかげ。フェスティ−ボをヒットさせてくれた黒石中学校のおかげ。(1976年青森市民会館での名演奏は忘れられないなあ)でも青森県はあの名演奏のせいで翌年の大会はフェスティ−ボだらけ。我が母校F中学校も自由曲はこのフェスティーボだったんだけど、ちょうど青森国体の年で忙しいからコンク−ル出なかったんだよなあ。出場してたらどうなっていたんだろう。30過ぎても心残りなのはそのことばかり。その思いが私とネリベルを一層強く結びつけているのかもしれない。それ以来私は自分を見失いそうになった時には必ずネリベルを演奏し、忘れかけていたものを取り戻すようにしています。でもネリベルって個性が強すぎてみんな演奏しないんですよね。気持ち悪いとかワンパターンだと言う人もいるけど私を救ってくれた神はやっぱりネリベル様だ!!(危)だからせめて私だけでもずっとネリベルマニア(フェチか?)でいたいと思います!

1978年(高校1年)
ジュビラーテ(R.ジェーガー)

結局この年の様々な出会いがなければ今こうして吹奏楽をやっていることはなかったでしょう。ポップス系の課題曲しか吹いたことがなかった私にとってこの曲はとても新鮮でした。流石吹奏楽界の重鎮ジェーガー!と感心したものです。当時の指揮者は卒業生の工藤守生氏(弘前大学3年生)。曲の背景や情景について考える事がどんなに楽しくて重要なことなのかを教えてもらいましたよ。今でも練習するより先にそれを考えてしまうのは間違いなく彼の影響でしょう。そしてもうひとりの卒業生小笠原敏章氏。当時日本一だった駒沢大で修行してきた彼の練習方法は出来ないことを出来るようにするにはどうすればよいか?という疑問をすべて解決してしまうセンセーショナルなものでした。おかげでどんなに下手な部員がいても「練習の方法さえ正しければ絶対吹けるようになる!」という確信を持って指導できるようになりました。また、当時オーボエがなかった為ソプラノサックス(中学校3年生の秋に購入、もちろんジョンコルトレーンに憧れたからである)吹かされたのですが、彼に「お前のソプラノサックスは音程悪くて使えない!」と言われてしまったのです。中学校の時俺って結構吹けるじゃん!?といい気になってただけに悔しくて・・・それからは鬼のように練習しました。どんなに譜面通り吹けても、どんなに音色がよくても音程が悪ければ無意味!ってことを教わりました。本当に感謝感謝です。だから今も合奏で一番気になるのがまず音程なんですよ。というわけでジュビラーテを聞くとあの夏の練習が蘇って泣けるんです。特に6/8の中間部のメロディは忘れられません。結果的にこの年のコンクールは僅か2点差(当時は順位制ではなく、課題曲も自由曲100点満点で審査なのでこれはもうめちゃくちゃ僅差なんです)で入賞を逃し銅賞でした。ライバルの山田高校が金賞で東北大会初出場を決めたその年に余りにも残酷な結末。(しかも後日聞いたところによると本当は2点差だから東も銀賞にしよう!と決まったのですがなんとトロフィーが足りない!と言う理由で銀賞にならなかったのです!!!それで人生変わった奴がいるっての反省しろよな青森県吹連!)私はこの年の全国大会で金賞の団体が演奏したジュビラーテの演奏をすべて入手し(今は亡きトラヤさんから、お年玉全部使った)「自分たちの演奏との違い」を研究しました。この時は将来顧問になって指揮者になるなんて考えてもいなかったのですが「同じ譜面でもこんなに違う演奏になるのか!」「こんな解釈もアリなのか」ということに気づいた事は後の大きな財産になったのは言うまでもありません。

シンフォニックダンスbR(C.ウィリアムス)

1979年(高校2年)
フェリスタス(青木進)
第二組曲(R.ジェーガー)


1980年(高校3年)
吹奏楽の為の花祭り(小山清茂)
舞踊組曲ロデオよりカウボーイの休日(A.コープランド)


1983年(大学3年)
土俗的舞曲(和田薫)

 指揮者デビューは大学3年生。毎年顧問のいない母校の5代目指揮者としてでした。その年の課題曲はこの土俗的舞曲。今でもBJではコンクール特集で課題曲作曲者に聞く!なんてやってますが当時その中でこの曲の作曲者が「同じフレーズをこだまのようにはせず、2回とも同じに演奏して欲しい」と書いてたんですよ。私はそれを読んで忠実に実行。すると審査員からこんな講評が・・・「同じ事を二回くり返してはだめ!」・・・ショックでしたね。もう何を信じればいいのかわからなくなってしまいました。さらに「指揮がよくない」なんて書かれるし。もともと困ってる後輩のためにボランティアで指揮してるわけだし、プロの指揮者になるわけでもないのにそりゃねえべよ!なんてふてくされてもう指揮なんかしないと誓っちゃうわけです。(でも、本当はライバル佐々木隆一に負けたせいかも・・・)

戸外の序曲(A.コープランド)

 現役時代にコープランドで勝利したせいかデビュー戦でも縁起を担いで無謀にもコープランドを選んでしまった私。長い長いラッパソロがあるのにそんな事は一切考えず、「やりたいからやる」とか「東はコープランドでなきゃダメなんだ」とか「俺が燃える曲に燃えないならそれはお前らが悪いんだ」なんて言って無理矢理やらせてたっけ・・・ラッパの2年生がソロ吹けなくて何とか彼を傷つけずに上手い1年生にソロ吹かせる方法はないかと毎日考えてましたね。今は立場上「お前吹け!」の一言で済みますが、学生だった当時はそれがなかなか出来ませんでした。若かったんだなあ・・・(でも学校で習った心理学が役に立ちまして上手くいきましたけど)
でもこの曲の思い出は何と言っても青森地区合同演奏会(コンクールの公開合同練習みたいなもの)のこと。指揮棒忘れて(というか持ってなくて)いつも練習で使ってる鉛筆くらいの長さの折れた指揮棒使ったら当時バリバリの全盛期だった某山○高校顧問葛○悟大先生にこっぴどく怒られました。「指揮するのに指揮棒持ってないなんて考えられん、学校にないなら自分で買うのが普通だろ?この馬鹿者!」なんて言われました・・・実は今も恐いんです・・・この時生まれて初めて買った指揮棒が45センチ。僕には長すぎました・・・

1986年
コンサートマーチテイクオフ(建部智弘)

 OBとして母校を指揮することに決めてたら臨時講師になっちゃって中央高校の指揮もすることになりました。教員デビューからダブル出場なんてやっぱり変ですよねぇ。もう二度と指揮なんかするものかと思っていたのですが先生として指揮をすることとOBとして指揮をすることは全然違うんだと言うことに気がついてしまったのですよ。と言うわけで生まれてはじめて審査員に「夢を感じさせてくれる演奏」と誉められちゃうわけです。(実は後の仲人だったりする・・・)お世辞でも嬉しかったなぁ・・・今思うとスゴいメンバーでした。あの頃の私にもう少し力があれば違った結果になったかと思うと申し訳なくて・・・

スペイン奇想曲より(R.コルサコフ)
 
 あの時どうしてこの曲を選んだのかは今となっては全く覚えていない。なぜ普通なら最初から東には絶対無理!と言うはずの曲をあの時はすんなりとやろうという事になったのか?クラリネットやサックスのソロがあるからかもしれないし誰かがやりたいと言ったのかもしれない。でもあの時不思議と「今やらなければいけない」という思いがみんなを動かしていた事だけは覚えてる。OBが指揮をすることに最後まで疑問を持っていた当時の顧問の先生が演奏終了後拍手しながらみんなを迎えてくれた時「ああ、今年はこれでよかったんだな」と心から感動した。でも結果は銀賞。県大会へ進むことはできなかった・・・自分的には全力を尽くしたし、悔いはなかった。しかし泣いている連中を見た時に猛烈に後悔した。この結果がこの後のこいつらの人生を大きく変えるかもしれないのに、満足していた自分はなんと情けないのだろう・・・・償える方法があるとすれば・・・絶対先生になっていつか必ず東に戻る!それしかない。そう誓った。生徒の人生に責任を持てる立場になければ指揮なんかできないししてはいけない。一度でもコンクールで指揮をしてしまったならそれはたくさんの子供の人生を変えたって事。「もう吹奏楽やーめた」などと言ってはいけないのだ。この年顧問にとって一番必要なものを私は手に入れたと思う。それこそがスペイン魂。消えることのない永遠に熱く赤く燃える思いだ。


1987年
風紋(保科洋)
アルメニアンダンスパートU(A.リード)
1988年
深層の祭り(三善晃)
愁映(保科洋)
1989年
WISH(田嶋勉)
吹奏楽の為のカプリス(保科洋)
1990年
風の黙示録(名取吾郎)
二つの交響的断章(V.ネリベル)


1991年
斜影の遺跡()
 
 転勤して初めて聞いた商業の音は・・・「これが本当にあの無敵のBクラス3年連続東北大会出場の学校?」と思うようなひどいものだった。誤解のないように言っておくが個々は上手い。三本木よりはるかにいい音を出すプレイヤーがゴロゴロいた。それには流石に参った。これでは勝負にならないはずだ。しかし合奏能力は格段に低いのだ!これはどういうことだ?三本木時代に商業の定期演奏会を聞いて思っていたこと「こいつらは練習を重ねたコンクールの曲だけが上手いのではないか?」という想像は当たっていたのだ。ガーン。いかん。いかんよ。これではいかん。なんとかしなければ。しかし当時の私には「少ない人数で個々は下手でも合奏でごまかす」のは得意だったが90人近い上手いのと下手なのが集まった楽団でまとまったいい音を出させる技はなかったのだ・・・苦肉の策はメンバーを3チームに分けての分割練習。そしてAクラスBクラスダブル出場。それが精一杯だった。こうして商業の栄光の時代が終わろうとしていた。それはまさに傾きかけた斜影の遺跡・・・・

管弦楽のための映像第二番イベリアより1・3楽章(C.ドビュッシー)

 4年間勤務した三本木高校でBクラスながらようやく東北大会で金賞を受賞し、「ようし次はAクラスじゃあ!」と盛り上がってたら転勤・・・しかも行き先が隣町のライバル校とは今時漫画でも見かけない展開・・・やる気を失い死にかけてた私の前に現れた「美しい女性部長くま」に「同じマニアの匂い」を感じた私は即座に彼女の担当するファゴットがメインの「道化師の朝の歌」を自由曲に決めた。しかし、しかしである!1991年当時ラベルの著作権が残っていることを私は知らなかったのだあああ!結局コンクール1ヶ月前に自由曲変更。とにかく少しでもラベルっぽい?フランス方面の曲で刻みが多くてスペインぽく情熱的でしかもトロンボーンのグリッサンドで終わるなんて都合のいい曲はないのか?3日3晩レコード(CDではない)探した結果見つけたのがこのイベリアだった。しかし練習不足には勝てず銀賞。これ以後私は「フランスもの恐怖症」になってしまい未だ完治していません・・・誰か治療して下さい。

1992年
ネレイデス(田中賢)
  
 商業に来て2年目。ようやく生徒達に慣れたものの私は何か物足りなさを感じていた。真面目ではあるが何となく部活に来て何となく練習し何となく帰っていく部員たち。「私と同じくらい部活に情熱を捧げる者がいないのではないか」という不安に駆られた私はこの年大きな賭けに出た。春に高校を卒業したばかりの習志野高校OBを講師に迎えての大湊高校との合同合宿である。後にも先にもこんな大それた計画をしたことはない。大先輩である大湊高校の斎藤聖一先生がいたからこそ実現した夢のような合宿であった。しかしそこで起きたことは私の吹奏楽人生を大きく変えることになったのである。全国のトップレベルの生徒と接し、目の前でどんどん変わってゆく生徒達、何も変われない自分。「生徒を信じていない」「お前は生徒に近すぎる」同行していただいたクランポンの講師の方からも容赦なく浴びせられるお叱り。情けなくて死にそうだった。そうか、この子達の可能性を潰しているのは間違いない、俺なのだと確信した。どうしたらいい?俺に出来ることはないのか?その時「課題曲変えたらどうですか?」の一言。今の生徒なら何でも出来る。迷わず私は課題曲をこのネレイデスに変えた・・・結果的にこの年は東北大会は逃したものの大湊高校と並んで県大会3位まで浮上した。人の意志による奇跡の力、神話の時代から人が神に等しい力を発揮する瞬間をこの年私は見たのである。

アンティフォナーレ(V.ネリベル)

 三本木で奇跡とも言える東北大会金賞は私にとって特別なネリベルの曲のおかげだった。全国的に見ればネリベルで勝つのは難しい。しかしそれは通常上手いバンドでは禁じ手とされている演奏表現が多用されている故である。しかしここ青森県南部地方のバンドにとってそれは下手なほど逆に容易い表現であり、それが協力な武器にもなるのだ。学校が変わっても今の私が戦えるのはこの人の曲しかない、と選んだのがこのアンティフォナーレである。結果は前述の通り県大会3位で銀賞。無念の敗退。今なら問題なく東北大会出場なのだが・・・ともに敗れた大湊(こちらは審査員5人中2人が1位をつけていながらまさかの敗退。つまり残りの審査員がとんでもなく低かったと言うことで後に審査方法について物議を醸すことになる)にとっても運がなかったとしか言いようがない。(奇しくもこの年は八戸北高校が全国大会初出場を決めた年でもある。やはり運なのか)こうしてネリベルで敗れた私にはもうコンクールで戦う武器を失い、戦いのフィールドをマーチングへと移すことになるのである。

1993年
ターンブルマーチ
交響曲より(矢代秋雄)

1994年
ベリーを摘んだらダンスにしよう(間宮芳生)

ダンスシンフォニーより第3楽章(A.コープランド)

 我らが青森県代表弘前南高校が全国大会初出場初金賞と言う快挙を達成した時の自由曲がコープランドのエルサロンメヒコだった。当時高校生だった私はめちゃくちゃ感動し、高校3年の時に無謀だと仲間に止められながらも同じコープランドのロデオを演奏しBクラスながら発の銀賞を獲得した。以来コープランド大好き人間になった私は大学時代彼の曲を聴きまくった。(母校は次の年のコンクールでもコープランドのビリーザキッド「おそらく本邦初演と思う」を演奏し銀賞を受賞)難曲揃いのレパートリーの中でいつかはやってみたい曲のNO1になったのがこのダンスシンフォニーであった。四畳半一間の下宿で「いつか自分のバンドでこの曲を!」と夢見つつ夜中までかかって編曲していたのである。商業に来て四年目。今年のメンバーなら!と張り切ってこの曲を自由曲に選んだ。しかし「後輩を教えることより自分が上手くなることを優先する」「みんなの目標より自分の目標に向かって努力する」「明日のことより今日のことが大切」というメンバーに対して、若かった私には「みんなで力を合わせて目標を達成すること」の大切さを教えることができませんでした・・・「勝たせたい!」とか「勝ちたい!」という思いが強い時こそ、逆にあれこれと口出ししない方がうまくいくのかなあと今は思っています。いつかリベンジしたい1曲です。



その他

呪文と踊り(J.B.チャンス)

 この年私は大学を卒業したが教員採用試験に落ちて無職だった・・・おとなしく勉強してればいいのについつい母校の指導に深入りし、とうとうコンクールで指揮をすることに・・・しかし当時青森地区Bクラス(35人まで)では三沢商業が圧倒的に強く地区大会突破は絶望的であった。ところが!その年三沢商業野球部が甲子園出場を決めたのである!青森県では甲子園出場校吹奏楽部はシードで県大会出場と言う規定があったので我が母校にもチャンスが!しかし結果はあと一歩のところで金賞を逃し銀賞・・・せっかく三沢商業がくれたチャンスなのに・・・と落ち込んでたらその三沢商業が県大会で金賞!東北大会初出場を決めてしまった!青森県では県大会金賞団体の出場する地区にシード権がプラスされるのだ!ジャーン!こうして翌年我が母校はめでたく県大会へ出場できたのである!めでたしめでたし。その後青森では「チャンスの曲はチャンスをくれる(?)」と言われたのは言うまでもない・・・
それはそうと未だに遠征先の旅館で「三沢商業」って書いてあるジャージ着てると「三沢商業?あ〜!あの太田幸司の・・・」って言われる・・・こらこら
それは三沢高校じゃい!(激)


吹奏楽の為のシンフォニア(小林徹)

 先日部員が古いレコードを持ってきて録音して欲しいと言うので何かと思えば「お父さんのコンクールのレコード」だと言う。お父さん商業なの!しかも吹奏楽部!そんで娘も商業で吹奏楽部!うわあドラマみたい〜しかもいつの時代かと思えばCクラス優勝の74年じゃないか!こりゃ聞かなきゃ!というわけで久々にプレーヤー起動!捨てなくてよかった・・・ああ、このシャリシャリ感がたまらん・・・おお懐かしのシンフォニア!(といってもこのころ僕は小学生、演奏したのは大人になってからであるが)うむ。男が多い昔の吹奏楽部の音がする。硬派だ。木管の音が時代を感じさせるなあ。当時は難曲と言われた課題曲、少々ミスはあるもののさすが入谷先生ツボを押さえたニクイ演奏してる。こりゃ優勝しても不思議はない。作曲者の小林さんはこのあとも課題曲書き続けてましたね。僕は次の年の小前奏曲が大好きなんですけども・・・・いつかやりたいなあ・・・というわけで古き良き時代を忘れずまた明日から頑張ろうと思う次第です。